彼方のアストラが面白かった!

天気の子とセカイ系とラスト。世界の形を決定的に変えるのは良いのか問題

新海誠「天気の子」のネタバレ感想。心が曇ったまま終わるセカイ系だけど嫌いじゃない

天気の子は新海誠監督的な「セカイ系」へのアンサーに思えます。

「セカイ(世界)のかたちを決定的に変えてしまったんだ」

という冒頭の言葉は、果たして肯定されるべきものか、否定されるべきものか。

物語のラストが何故そうなったのも含めて、ネタバレありで考えてみました

天気の子と新海誠監督的なセカイ系へのアンサー

VSセカイ系「世界の形を決定的に変えてしまったんだ」

「セカイ系」と呼ばれる作品たちがあります。

※定義は色々あるので「少年少女2人の行動が世界に直接影響する」くらいの意味で使います

天気の子はそんなセカイ系の新たな境地を開いた作品だったかなと思います。

 

というのも、よくあるパターンとしては

  • セカイと愛する人、どちらを選ぶかの葛藤
  • 愛する人を選んだ先のセカイの破滅への後悔、切なさ or それでもいいんだ!という表現(愛の深さを表す)

というのが王道パターン。

なんにしても、セカイよりも愛する人を選んだ後のセカイは悲惨で、その責任を主人公たちは受け入れなきゃいけない、というのが定石でした。

 

しかし、天気の子においては、そのセカイよりも、愛する人を選ぶということ(自分のエゴを押し通すということ)を、圧倒的に肯定しているんですね。

物語冒頭で紡がれる言葉は

「セカイのかたちを決定的に変えてしまったんだ」

でしたが、それに対する物語後半のアンサーは

「それでも、そんなセカイの中で人々はしっかり生きている」

というもの。

セカイを変えたこと、救えなかったことというのは、彼一人が背負う責任ではない。

彼一人が悔いるべき誤った選択ではない、というのが、この映画におけるファイナルアンサーでした。

 

圧倒的に肯定されるラスト。セカイはそれでも回る

圧倒的に肯定される2人の選択。

須賀圭介は森嶋帆高に「お前なんかの選択で世界が変わるわけない」と言っています。

実際に大雨が3年以上続く状態になっているのは、間違いなく彼の選択に影響を受けているのですが、そんなことはどうでもよい。

須賀圭介が言いたいことを要約すると「心配するな、一人で責任を感じるな」ということですよね。

 

また、最後に出てくるおばあちゃんも「東京は200年前、水浸しだった」とも言っています。

大人たちは、この少年少女の選択を決して責めはせず、それでも世界は回るから大丈夫と言っているようにすら思えます。

 

新海誠の葛藤「セカイ系」的存在の監督業の辛さ

これって結局なんなのか?

一言でいうと、新海誠さんの葛藤なのかな、と。

「君の名は」で「セカイ系」的な存在になった監督業の辛さ、とも言えます。

つまり、思った以上に自分の好きな映画・創作というものはセカイに与える力を持ってしまった。

そんな状況でも自分は映画を作り続けてもよいのだろうか?と。

 

スタジオジブリの宮崎駿監督は「となりのトトロ」を作ったときに「トトロを通じて、自然に興味を持ってもらい、子どもたちに外で遊んでもらいたかった」ようです。

しかし実際には「トトロを見るために、子どもたちは部屋の中にこもり、ビデオを見るようになってしまった」という話があります。

作品が人に与える影響、望んだものとは違う変容。

そういったものが見えていながらも、作品を作り続けて良いのか?

 

新海誠監督は、そこに対して、迷った末、全力で振りかぶりこう答えます。

「それでも作り続けるべきだ」と。

 

新海誠監督。

ものを作る人。

セカイに影響を与える人。

全ての人に対してこういっているように思えます。

「セカイは変わるかも知れない」

「だが、一人で責任を追うことはない」

「それでも好きなこと、望むことを追求し続けよう」

と。

天気の子のラストは、そんなエールだったのかもしれません。

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