アニメ「さらざんまい」をさらっとネタバレ考察&感想です。
※さらざんまいは、少女革命ウテナ、輪るピングドラムの監督「幾原邦彦」さんのオリジナルアニメ作品です。
パカログ
目次
さらざんまいの概要をさらっと紹介【ネタバレなし】
さらざんまいの概要をさらっと紹介します(未見者向けのネタバレなし記事)。既に見た方はスキップして、ネタバレあり考察をどうぞ。
- あらすじ:3人の少年が「カッパ」になって「カワウソ」と戦う話
- キャッチコピー:「つながっても、見失っても。手放すな、欲望は君の命だ。」
- ポイント:散りばめられた伏線、突如挿入される楽しいミュージカル的演出、さらっと11話で終わる
公式HPのあらすじを引用します↓
舞台は浅草。
中学2年生の矢逆一稀、久慈悠、陣内燕太の3人はある日、謎のカッパ型生命体“ケッピ”に出会い、
無理やり尻子玉を奪われカッパに変身させられてしまう。『元の姿に戻りたければ“ある方法”でつながり、ゾンビの尻子玉を持ってこい』
ケッピにそう告げられる3人。少年たちはつながりあい、ゾンビの尻子玉を奪うことができるのか?!
同じ頃、新星玲央と阿久津真武が勤務する交番でも
何かが起ころうとしていたー。
ぶっちゃけ、最初の3話くらいを見ても「何が何だか分からない」という感想を抱くと思います。
ただ、見続けると段々と謎が深まり、妙な中毒性も相まって面白くなるはず。
Amazonプライム・ビデオでさらざんまいが無料で全話見られました。
さらっと「さらざんまい」全話の見どころ(伏線などの解説)
このアニメ「さらざんまい」は、さらっと緩く見ることも出来るんですが、そうすると各話の秘密や伏線を見逃してしまいます。
全話の中で「見どころ」(伏線など)の解説を最初にしていきます
さらざんまい第三皿:つながりたい相手とOP演出
さらざんまい第三皿では、燕太が一稀にキスをします。
ここから「好き」だということが分かりますね。
それと同時に、OPの絵は「つながりたい相手」だということも理解できるはず。
さらざんまい第五皿:一稀の春河に対する態度の理由
さらざんまい第五皿では、一稀の祖父の「お前の母親は、だらしない女だった」という一言から、幼少期の一稀は
- 自分は本当の家族じゃなかったこと
- 春河も本当の妹じゃなかったこと
- 血のつながった母親は別にいること
を理解します。
また、その後春河の事故などもあり、物語初期の「一稀の春河に対する態度」になったのだと分かります。
「さらざんまい」の様々な謎の考察と解説【ネタバレ】
「さらざんまい」の考察と解説(ネタバレあり)です。
最終回(11話)までの内容について触れているので、先に全話見ることをオススメします。
以下、私の個人的な考察なので、ご意見・ご感想があればコメント欄にお願いします。
パカログ
さらざんまいのタイトルの意味は?
さらざんまいのタイトルの意味は?
- さら→
- ざんまい→「心を一つのものに集中させて、安定した精神状態に入る宗教的な瞑想」という意味
なお、幾原邦彦監督のトークショーでは
- 『三枚が斬る』と『さらざんまい』の2パターンあった
- 仮タイトルの「さらざんまい」がスタッフ間で浸透して、そのままそれになった
と言っています。
※後述しますが、さらざんまいのキャラ名は時代劇の「三匹が斬る!」を元にしているそうです
あるいはシンプルに「三人の主人公の皿が三枚」=「皿三枚」という言葉遊びでもあるかな、と。
ちなみにケッピが「さらざんまい」について語ったセリフはこんな感じ↓
- 尻子玉が溶けきる前に私に転送するですケロ。さらざんまいですケロ
看板の「ア」の意味は?→「愛」
看板の「ア」の意味は?
ぶっちゃけ色々候補があると思います→「愛」「浅草」「アクセス」「アンテナ」
ただ「愛」が一番最適なのかな、と思います。
吾妻サラの「アサクササラテレビ」での1シーン
吾妻サラの「アサクササラテレビ」での1シーンを見ると、
- 心から「ア」を信じなさい
- 「ア」を御事由に御覧ください
- 「ア」あっての自分
- 世界の(中心で)「ア」を叫(んだけもの)
という表現があります。
最後は隠れていて分かりませんが、明らかにハーラン・エリスンの短篇SF小説「世界の中心で愛を叫んだけもの」から来ています。
※セカチュー(世界の中心で、愛を叫ぶ)の方が馴染みがあるかも
「ア」の看板の裏は「カワウソ」
「ア」の看板の裏は「カワウソ」です。
カズキたちがカッパになって裏の世界でカパゾンビ達と戦う時に、看板が裏返っていましたね。
また、作中に何度も出てくる玲央と真武のセリフ
「欲望か、愛か」
から考えると
- 表:「ア」=愛
- 裏:「カワウソ」=欲望
という対比構造であると推測できます。
尻子玉とカパゾンビの持っていた秘密の欲望
尻子玉とは何か?
ケッピによると「人間の尻の中にある”欲望エネルギー”を蓄積する臓器」とのこと。
この尻子玉をかっぱらう(河童らう)と、カパゾンビの真の欲望が明らかになります。
例えばこんな感じ
- ハコ→盗んだハコを裸でかぶりたい
- ネコ→猫になって好きな人に愛されたい
- キス→たくさんのキスを釣り、三枚におろしたい(愛されたい)
- ソバ→好きな人の入った残り湯でそばを茹でたい
- サシェ→大事な人の香りを探し求めたい
- タマ→ボールになって好きな人に蹴られたい
どれもこれも
- 要望の対象(相手)が実はいた
- 相手の気持ちと関係なく、一方的に繋がりたい
というのが特徴かな、と思います。
キャッチコピー「手放すな、欲望は君の命だ」
キャッチコピー「手放すな、欲望は君の命だ」はどういう意味か?
各種メディアでインタビューに答える幾原監督の発言をまとめると
- カパゾンビの欲望と、一稀たち人間の欲望は基本的に同じ
- 違いは「人の輪とつながれるかどうか」
- 生きること=欲望を持つこと
- 欲望を持つというのはネガティブではない
期待をするから「失う悲しさ」がある
仏教の生みの親「仏陀」は以下のように言っています
- 人間は「こうなってほしい」という期待をしている(欲望)
- 欲望は常に叶うことはない(叶い続けることはない)
- 欲望があるから「苦しみ」が生まれる
最終回で「欲望の河を渡れ」という表現がありましたが、これは欲望の彼岸側に行こう
ケッピは何者か?河童王国の第一王位継承者
河童のケッピは何者か?
「河童王国の第一王位継承者」
と言っていたが、カッパ王国の王様みたいな存在っぽい。
カッパ王国歴333年、カワウソに襲われたせいで河童王国はほぼ崩壊しました。
その時、命からがら王様だけ生き残った…みたいな感じかと(姫もいるけど)。
で、その逃げる際に「自身の絶望」を分離して、カワウソに奪い取られたんですね。
さらざんまい第十皿の中でも「戦乱のさなか、絶望に飲み込まれそうになった私は、自らの尻子玉を二つに割った」というセリフがありましたね。
結局ケッピは何に絶望していたのか?
では、結局ケッピは何に絶望していたのか?
「つながろうとすることで、起きる様々な負の側面」に絶望していたのかな、と。
例えば「好きな子がいる(つながりたい)」状態だったとして
- 振られるの怖い
- 付き合えたとしても離れたくない
- 別れた時に悲しい
というようなものが「つながろうとする」ことの負の側面ですよね。
パカログ
カワウソとは何か?→「概念」
カワウソとは何か?
作品で彼が自称していたのは「自分は概念」だということ。
つまり、カズキたちのいる人間世界や、河童世界に「具体的な姿で出てきた敵」ではないっぽい。
欲望という概念が具象化した姿。
第九皿では「欲望を映し出す鏡」であり「概念としてこの世に存在している」と言っていました。
「この世界は悪いヤツが生き残るんだ」の嘘
悠の兄である誓は「この世界は悪いヤツが生き残るんだ」と常々言っていましたね。
しかし、第10話にて死亡。
物語において、その主張が正しくないことをある種身をもって証明しています。
ちなみに善悪で言うと、兄のためとはいえ殺人という罪を犯した悠は悪いやつですね。
しかし彼は生きています。
結局は「つながり」を持っていたかどうか、捨てたかどうかがポイントだったとも言えます。
「縁」の内側と外側
作品の中で「縁」の内側と外側が何度も描かれていました。
簡単に言うと、人間が住む表の世界は「縁の内側」です。
裏の世界は「縁の外側」です。
外側に行くと、他の人間に忘れられてしまいます(つながりを持たないため)
「はじまらない、おわらない、つながらない」
「はじまらない、おわらない、つながらない」はメタファーでして、
「はじまらない」一稀が悠を思い出して始まって
「おわらない」燕太は希望の皿で生き返り
「つながらない」悠は自らつながりを選んだ
さらざんまい最終回から見る作品テーマの感想
さらざんまい最終回から見る作品テーマの感想です。
「つながり」を選ぶのか?(つながりたいけど…に見る「悪い面」)
「つながり」を持つ、あるいは持とうとすると
- 良い面:寂しくないし、生きる活力になるし、幸せ
- 悪い面:苦しい
がそれぞれあります。
「苦しい」とは何か?
3人がサッカー選手になった未来の世界の描写がヒントでして、つながりを持とうとすると
- 偽りたくなる
- 奪いたくなる
- 報われないこともある
- そばにいない(寂しい)
- 許されないこともある
- 裏切りたくなる
- もう会えない
- 伝わらない
という負の側面がありますね。
「つながりたい」ことで生じる苦しさを受け入れて、諦めずに「つながりたい(欲望)」という道を選ぶのか?
ミサンガは何だったのか?
ミサンガは何だったのか?
最後に主人公たちが「ミサンガ」を取り戻す、取り戻さない、という話をしていたのは、ミサンガが「3人のつながり」の始まりであり、象徴だったから。
※作品的には「つながり」という抽象概念を、表現するためのアイテムとも捉えられますね
カワウソは敵なのか?何なのか?
カワウソは敵なのか?何ものだったのか?
イクニ監督の作品では「震災」が比喩的に度々取り上げられています(東日本大震災や、本作の舞台の浅草と関係する関東大震災)。
さらざんまいでも「カワウソ帝国がカッパ王国を襲った」のは、その比喩な気もします。
つまり、アメコミなどでよくある「世界を滅ぼそうとする具体的な敵」とは違うのかな、と。
地震や災害も「誰か特定の個人あるいは組織」が引き起こしたものではありません。
いわば責めようのない出来事。
カワウソもそんな感じで、生きる限り、避けようのない「出来事」だったのかな、と。
ケッピの
最終回における主人公たちの死亡説は?
ピンドラなどのイクニ監督が作った作品ということで、そもそも一筋縄ではいかない可能性もあります。
一例として「最終回で主人公たちは自殺したのでは?」という説もありますね。
- 少年院から出所した悠を一稀も燕太も迎えに来ていない(死んでいるのでは?)
- 悠が川に飛び込んだ途端に一稀も燕太も飛び込む(
カズキたちのネクタイが変わっていました
カズキたちのネクタイが変わっていましたね
ポイントは「やり直し」が出来るという点
ポイントは「やり直し」が出来るという点
その河を渡れ。もう決して戻れないのだから
PVや「その河を渡れ。もう決して戻れないのだから」
さらざんまいのモチーフ(元ネタ)や関係作品とか
さらざんまいのモチーフ・元ネタや関係する作品についても簡単に触れておきます
時代劇「三匹が斬る!」が「さらざんまい」キャラの名前の元ネタ
時代劇「三匹が斬る!」が「さらざんまい」キャラの名前の元ネタですね。
- 矢坂平四郎 → 矢逆一稀
- 久慈慎之介→久慈悠
- 燕陣内→陣内燕太
パカログ
さらざんまいの下敷き→芥川龍之介の「河童」
芥川龍之介の「河童」が元ネタの1つですね。
この作品をざっくりいうと
- 精神病院に入院中の患者(主人公)の回想から始まる
- 主人公は昔、河童の世界(国)に行ったことがある
- 河童の世界は人間の世界と違っていた
- 主人公は河童の世界の価値観を身に着けて、人間の世界に帰る
- 主人公は、人間社会では「精神病」扱いされてしまう
という感じ。
さらざんまいの作中でも「河童の世界」から帰れなくなりそうな描写がありましたが、この作品を踏まえてみると、また面白さが変わるかも。
ちなみにカッパの敵は「カワウソ」だったりします。
※古い本なのでKindleでタダで読めます
さらざんまい作中で「サッカー」を3人がしていた理由
さらざんまい作中で「サッカー」を3人がしていた理由ですが、これにも意味があるように思えます。
他のスポーツではなくサッカーだった理由は「つながり」が大事なスポーツの代表例だから。
- パス=つなぐ
- サッカーボール=尻子玉(欲望)
- ゴール=結果
他のスポーツでも成立する気はしますが、カズキたちが「さらっと」ポーズの元ネタとなったプロサッカー選手に憧れることを考えると、サッカーが適切だったのかも
星の王子さまとお姫さま(ケッピとサラ)
第11話(最終話)では、一稀の妹の春河が決ぴとサラを見て
「星の王子さまとお姫さま」
と発言しています。
最初はサン=テグジュペリの「星の王子さま」かと思いました。大切なもの(つながり)は目に見えないですし。
ただ、二人いるという点から「織姫と彦星の物語」という気もします。
七夕の日に繋がれる二人は繋がります。